寅次郎の喜怒哀楽    寅パパの多事争論 Ver.2

国際政治専攻の寅パパが、ん?と思ったら書いています!

33年前の今日

お疲れさまです。寅パパです。

TBS入社2年目のSというアナウンサー。どうして採用したのか、人事に聞きたいものです。

 

 

さてさて。

 

 

33年前の6月4日未明に起きた天安門事件

前夜遅く、寮の隣室だったドイツ外務省派遣留学生が一言。

『明日は動かない方が良い』と深刻な顔で話した。

結局、あの惨劇が起こった。

 

この男、毎晩キーパンチの音が部屋から聞こえるが、何をしているかわからない不思議な奴だった。今思い返すと『電信官』だったのかもしれない。

4日もそのドイツ人は『間もなく各国大使館が、救援車両を出すらしい、中国政府と話はついている。緊急避難のための政府特別機も来るようだ。』という。『ほんまかいな』と思ったが、頭の片隅に置いておいた。

一方、寅パパ達は北京大学構内に長く軟禁状態で、情報を収集するためにVOAFEN、ラジオオーストラリア、ラジオジャパンなど、あらゆる番組を聴いていた。麻雀しながら•••(何もすることがなかったし)。でも、そんな話はどこからも聞こえてこなくて。

 

当時、寅パパはJICA中国事務所で働いていたので、仲間の職員に電話してみると、どうやら5日午後にバスが手配され、避難が始まる予定だという。携帯電話なんぞ無かった時代だったから、貴重な情報だった。

 

お昼前後だっただろうか、確かに救援のバスが来た。車体に日の丸をつけていて、『狙われんじゃね?』と心配になったことを覚えている。さらに、『こんな時間じゃフライトなんて無いじゃん』と思いつつ、バスが乗って向かったのは京倫飯店のJAL支店。『おいおい、金取んのかよ!』これには驚いた。

チケットの手配を終えて『このままホテルで一泊かな?』と思いきや、『それでは、空港に移動します』とのアナウンス。『おいおい、夜に飛ぶのかい?』と不安を感じつつ、北京首都国際空港へ。

 

空港に着いた頃には太陽も沈み••

結局夜遅くに政府特別機は離陸し、『こりゃ、成田に着いたら大変だな』とか考えていたら、目的地は羽田。当時は羽田を台湾路線に、中国には成田路線と明確に区分けしていたのですが、政府チャーターは特別機ということで、羽田だったそうで。

 

まぁ、通信インフラも危機管理•対応能力も、すべてお粗末な時代だったから仕方がなかったことかもしれないが、こんなことがあったからこそ、昨今の在留邦人はそれなりにしっかり帰国できるんだよなぁ。

 

そういうこと、殆どの人は知らないよね。

 

寅パパ