寅次郎の喜怒哀楽    寅パパの多事争論 Ver.2

国際政治専攻の寅パパが、ん?と思ったら書いています!

学童について

お疲れさまです。寅パパです。

かねてより『ん?』と思っていたことを、書いておきます。

新型コロナウイルス狂想曲の中で、政府は小中高及び特別支援学校の休校を要請しました。短絡的政策遂行に終始する現政権のことですので、特に論ずることはございません。一方で、アオサ、ティッシュ、トイレットペーパーまで買い溜めに走るおバカな市民。冷静な情報の取捨選択ができない状況にあることを物語っていて、戦時中の井戸水の話を思い出してしまいます。

さてさて。

今日はあえて『学童』に関して記載しておくもんね。以前、労組書記長として労使交渉に関わっていた時も、ずっと引っかかっていたんだけどね。

昭和30年代後半からの子育てに『学童』という概念など聞いた覚えはなく、寅パパも友達も習い事や野良遊び(笑)特に寅パパは、毎日サッカーに明け暮れていましたから、00年前後あたりから報道で見聞きする『学童』は、『なにそれ』と不思議だったわけです。極めて唐突感がありました。それが此度の休校要請に起因する社会の混乱の中で『預けられない』『学童が…』という声が大きくなっている状況に、日ごろの違和感がさらに強くなった次第。

もちろん、本当に支援を必要としている親御さん•子供たちが存在していることは承知しており、制度全体を否定するつもりは毛頭ありません。その点はしっかりと書いておきます。

学童の法的根拠は以下の通り。

児童福祉法第6条三の第2項

(昭和二十二年法律第百六十四号、最終改正平成三十年)

この法律で、放課後児童健全育成事業とは、小学校に就学しているであつて、その保護者が労働等により昼間家庭にいないものに、授業の終了後に児童厚生施設等の施設を利用して適切な遊び及び生活の場を与えて、その健全な育成を図る事業をいう。

児童の権利に関する条約第18条の三

(日本は1994年4月22日に批准)

締約国は、父母が働いている児童が利用する資格を有する児童の養護のための役務の提供及び設備からその児童が便益を受ける権利を有することを確保するためのすべての適当な措置をとる。

こうしてみると、やはり『働いている』の捉え方に疑念が湧きます。

根拠法が想定していたであろう『特殊要因により困窮する家庭』や『紛争災害等による過酷な生活環境』等の比較的限定された特殊なバックグラウンドが見え隠れし、根拠法を盾にする現代日本は、そこから大きく乖離していると言わざるを得ません。故に、ただマイホームを買って、車を買って、高価なものを食し、結果ローンを抱え、その返済のために両親が働かなければならない…というパターンが多い日本は、どこかでズレてしまったのではないでしょうか。

現代日本は当該領域において本末転倒の状況に陥ってしまっています。その証拠に社会は大きく混乱し、動揺しています。右往左往してます。最も顕著なエビデンスは『学童が無ければ働けない』『預けられない』という多くの不思議な街頭インタビューコメントに見出せます。前提条件に乖離があること自体、報道側に十分な認識が欠けていることも一つの例ですが、現職国会議員さへも疑問をもたないのは、最悪ですね。

共働きすることは否定しません。でも、その理由に違和感があるだけです。子供を産んで育てることも大事です。だけど、大多数を占めるであろう『金利低いしね』『二人で働けば返済可能だよね』の場合は、『学童』を論ずる前に、生活を見直すことから始めるべきなのだと感じます。賃貸(或いは売却)に出して、狭い安い部屋に移り、慎ましい生活でバランスする努力も必要です。

少子化対策と経済成長(その結果の財政収支黒字化を含む)を両立させるための重要施策の一つであったと政府は言うでしょうけど、大きく逸脱した解釈により、あまりにもお粗末な社会システム・経済サイクルを生み出してしまった皮肉な現実が、意外な伏兵の出現によって露呈したことを直視し、マイナス成長前提の経済運営に転換すべきではないでしょうか。

ダウンサイジング

クルマのエンジンは嫌いだけど、生活を見直すことに於いては、とてもよいことだと思いますがね。寅パパは、前職を捨ててダウンサイジングしてますが、生活に困窮してません。

寅パパ