20年前の今頃〜Vol.2
このジャンルの記事に大きな(?)期待が寄せられていると勝手に思い込んだ寅パパは、完全に調子に乗って、すかさずVol.2を掲載することにした(苦笑)。
今思い出すと、あの当時は「なんで中国に留学なの???」と聞かれるくらい、それはそれは珍しいことだった。福島を出発する時も、駅で大勢の知人友人に見送っていただき、ホームにはなぜかアナウンスとBGMが流れていた様な記憶がある。ちと恥ずかしい。
さて、こっ恥ずかしい話を書いてみましょうか。
当時の留学生寮は、ガスを使うことが許されていなかった(というより、ガスは貴重だった。なにせ練炭全盛ですから・・・)。すべて電気に頼っていた生活だ。高校を卒業してすぐの寅パパたちは、食欲が旺盛である。そんな状況下で発生した事件をひとつ・・・。
ハンダ換えてBooom!!!
当時の北京は社会主義経済のど真ん中というか、昨今の北京なら普通とも言える庶民が外食するような時間帯にはお店が既に閉店だったりして、食事を確保するのが大変だった。19、20歳の寅パパたちは生活リズムもルーズだが、食べ盛りのお年頃である。自然と自分たちで食べたいものを好きな時に確保したくなっていったわけである。
そうなると、電気コンロを使用しなければ何も作れない。しかも蛸足配線も自分でするのである。
最初はラーメンを作れる程度の400Wのコンロを買ってくる。食べたいものはどんどんエスカレートするからパワー不足に不満ブーブー。次は600W、そのまた次は800W、え〜い面倒だ1500Wじゃ!・・・となる。そこが問題の発端。
住んでいるところは寮だし、当時は計画停電(これに関連する記事は、後日掲載します)全盛の時代であるからにして、使用容量は厳しく制限されていた。日本だったらブレーカーが過電流を遮断するだろうが、当時は碍子(白い陶器)の凹凸を組み合わせ、中の2箇所の電極をハンダで繋いだ原始的な「ブレーカー」で以って管理されていた。過電流になるとハンダが溶けて切れる訳だ。
空腹の寅パパたちがパワー全開のコンロを使う度に、このハンダが切れて電源を遮断されていた。幾つかの部屋が微妙に連結されていたので、他の先輩にも迷惑がかかる。そうなると、今度はこの配電盤に対して不満ブーブーである。
「なんとかしないと、ロクなものは食えんぞ!」ということで、これは死活問題である。みんなで知恵を絞った。
その時、ある一つの経験というか知識が役立ったのだ。
それは留学開始直後のこと。大好きな曲(レベッカとか、サザンとかね)を聴くために日本から持参した大切なラジカセを、一部の同級生が直接240Vに突っ込んで使ってヒューズを飛ばしていたのである。(当時はワールドワイドの電圧対応商品は少なかったのだ)。
それを使えるようにするには?・・・。
そうです。ヒューズの入っていた場所の電極を通電する金属で繋げれば良いのです。
「それじゃぁ!」
単純な僕達は、ある日すべての配電盤にある碍子の中の電極をハンダからクリップに変えたのです。
事件が起こったのはその日の夜のこと。夕食の時間に、各自それぞれコンロを使い始めて間もなくでした。ある者は春巻きを揚げ、ある者は日本風の味付けで野菜炒めを作っていました。
その時です。遠くで「ボーン!」という大音響。そして停電。
なにが起きたかと申しますと、大学の変電所の一部が見事に吹っ飛んだのでした。即座に学校の保守責任者飛んでくるわ、寮の管理人は真っ直ぐ配電盤に向かって碍子を外してすべてチェックするわ・・・。
厳しく叱られ、全員で「ありゃりゃ」・・・でした。
80年代後半。こんな経験は、日本じゃできなかっただろうなぁ。
寅パパ