江戸川の幼児虐待の事件について、
寅パパの気持ちをこのブログでも書いた。
「江戸川を越えて、橋を渡って来て、
そこで出会っていたなら・・・」
今回の大阪西区のケースは、
江戸川のケースとは違った意味で、
周囲の多くの人間が気付ける環境だった。
べランドのゴミにクレームをつけたご婦人。
インターフォンから聞こえた幼児の声に気付いていた住民。
明らかに江戸川のケースとは違う、
幼児の助けを求めるサインがそこには「確実に」あった。
多くのサイトでいろいろな意見が噴出している。
先に言っておくが、
国会議員の先生でその現場に行った人がいるだろうか?
うだうだ、くだらぬ論戦をしている前に、
もう少し現場に積極的に出るべきだ。
寅パパは子供が居ない。いや、できないのだ。
だから、こうして一言書く。
よく「子供は泣くのが仕事」と言うが、
こんな古い言葉では片づけられないのである。
寅パパは子供の泣き声が大嫌いである。
というよりも、
公衆の面前で泣く子を抱える家族が嫌いである。
だって、泣かない子供も確実に存在するのだから。
泣くという感情表現、
特に声を出して泣くことは、
「恐怖」「不安」「嫌悪」「不満」「不快」などが含まれる。
そこに「ママ」という言葉が重なっている時、
それは助けを求めている究極の叫びである。
従前から指摘しているが、
一般市民には「逮捕権」がある。
だが「通報義務」はそれぞれの法令で別個に規定されている。
もう一歩踏み込まなければならない、
そういったケースは、
幼児虐待も然り、最高齢の確認も然りである。
ならばどうしなければならないか?
民生委員
教職員
町内会役員
医師歯科医
看護師・ヘルパー
・・・などへの組織だった通報義務を講じると共に、
一定の状況証拠から、
対象組織の複数の通報により、
司法警察職員への「札」なしの「強制立ち入り」を認めるべきである。
周囲の眼を光らせるだけではなく、
「いつでもガサイレ可能ですよ」という
謂わば「抑止力」を出す必要がある。
「死刑」を犯罪防止の抑止力とするように、
高齢者乳幼児への犯罪を抑止するためには、
保護を目的とした行為に一定の強制権を持たせる以外に、
犯罪を食い止めることはできない。
ゴミの山に囲まれ、
酸素も薄れゆく部屋の中で、
唯一の頼りである母親の手を探した子供たち。
流れる涙が止まらない。
合掌
寅パパ